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20世紀最後の秘話
わが叔父 石原裕次郎の酒
文藝春秋 1月号
酒の余興は腕相撲。
野球部4番も勝てなかった
叔父とは本当によく酒を飲みました。叔父との思い出はいっしょに酒を飲んだときのことばかり。私の酒の飲み方を教えてくれたのは間違いなく叔父でした。
酒にまつわる思い出はいろいろとありますが、最初の思い出は高校時代まで逆上ります。まず最初に思い浮かぶのは、学校の昼休みに叔父に連れられてビールを飲んだときのことです。
叔父が監督主演した「大都会」というテレビ映画がありました。パート1からパート3まであるんですが、そのパート1のオープニングシーンを、慶応大学の日吉の銀杏並木をバックにして撮影することになったんです。
当時、私は慶応高校の3年生。叔父から撮影の話を聞いていたので、仲間3、4人と連れ立って見にいった。お目当ては断然、ヒロイン役の仁科明子さん。みんな叔父なんか眼中になかった。まだ松方弘樹と結婚する前で人気があったから、私が撮影のことをみんなに話すとオレもオレもという感じで揃ってわーっと出かけていきました。
実物を見たら、これがものすごく綺麗だった。女優さんなんかなかなか見たことがないですから圧倒されて、叔父のほうなど誰も見ないでみんな仁科さんばかり目で追いかけていました。
面倒見のいい兄貴分
そんなことに気づきもせず、叔父は撮影が終わったあと私たちのところに寄ってきてくれました。
「もう撮影は終わったからみんなで飯でも食おう。お前たちもロケバスに乗れ」
そう言って駅の反対側の飲食店街にある中華料理屋に連れていってくれた。
こういうときの叔父は面倒見がいい兄貴分という感じで、私は鼻が高かった。私にとってはいつも通りの叔父さんですけれど、仲間にとって石原裕次郎は大スターですから、みんな最初は緊張している。でも叔父も慶応高校出身というせいもあって、先輩後輩という感じで接してくれるんです。「数学の浅井先生、元気か」などと自分の担任の先生のことを気取らずに尋ねてくるから、仲間も叔父にはすぐに打ち解けていました。
中華料理屋では、なんと同じテーブルにあの仁科明子がいるんです。われわれの仲間はみんな大喜びで、もう天国に昇ったような夢心地でした。それで興が高じて、つい飲んではいけないビールを飲んだ。しかも仁科さんが注いでくれたから、余計飲んでしまった(笑)。仁科さんに注いでもらったことは当時の私たちにとっては一大事件で、その後いろんな人に自慢しまくった記憶があります。弟の良純などは本当に悔しがっていました。
ふと時計を見たら、授業開始の時刻が過ぎていた。マズイっと言ってみんなですっ飛んで帰った。銀杏並木の坂を走って上がって校舎にたどり着いたら、みんなの顔が真っ赤。こんな顔をしていては教室の中にもは入れません。廊下でへたり込んでいたら、先生の1人が通りかかって「お前ら何やってるんだ。赤い顔して」と見つかってしまった。
「実は叔父が来まして・・・・・・」と私が言うと、「おお、そうか」というんです。実はその先生が叔父の担任の浅井先生だった。まだいらっしゃったんです。その先生はしょうがねえなと言いながら、放送室まで連れていって「この中に入ってしばらくしてから教室に戻れ」と言ってくれました。本当に妙なもので叔父の縁で助かったわけです。
朝7時まで飲み明かした
叔父は若い人間と話をするのがとりわけ好きでした。ちょうどこの頃から、1ヵ月に1度くらいの割合で、叔父が「友だちを連れて遊びに来い」と成城の家に呼んでくれるようになったんです。毎月、友だちを1人か2人ずつ連れて行った記憶があります。
夜7時くらいから飲みだして、終わるのはいつも朝7時。延々10時間以上も飲んでいた。こちらは夜が明けるころからヘトヘトでしたけれど、叔父は最後まで平気な顔をして飲んでいました。叔母もおつまみを出したりして適当に付き合ってくれていた。この「飲み会」は大学を卒業するまでずっと続きました。
叔父はいつも通り飾らないで、高校生、大学生相手にもざっくばらんに話をしてくれました。これは大学に入ってからのことですが、地方から出てきたばかりのまだ垢抜けない後輩を連れていったら、叔父はその風貌とぎこちない態度を喜んで「お前は本当にオレが習った中学校の教師みたいな奴だな」と声を掛けるんです。こんな調子で叔父が言うと、別に褒めているわけでもないんですが、自然と打ち解けるから不思議です。叔父に会った友だちはみんな叔父のファンになっていました。
私が高校生だった頃は、慶応高校の同窓ということもあって自分の高校時代の話をよくしてくれました。叔父が高校の頃は、授業は選択制だし、休講になることもしばしばあって、いまの大学みたいに自由だったようです。授業がなくなった時間に、学校を抜け出してマージャンをやったり、夜はバーやナイトクラブで酒を飲んだりしていたという話をしてくれました。カリキュラムにギッシリと縛られていた私たちには、本当に同じ高校生の生活なのかと思うほど、うらやましい遊びっぷりでした。自由奔放に遊んでいた叔父にしてみれば、私たちなどはさぞ「いい坊や」に見えたと思います。
高校の先生の話もよく話題になりました。浅井先生のようにまだ現役で在籍していた先生もいましたから、大いに盛り上がったんです。「体育のタキグチはまだ元気か。あいつは大島に修学旅行に行ったときに、赤線をうろうろしてたから、みんなで後を追いかけて、冷やかしたんだ」なんて教えてくれる。ベテランの先生が若かったころの様子をつぎつぎと披露してくれるので、聞いていて本当に面白かった。逆にこちらからはその先生の最近の様子を教えると叔父は喜んでいました。
叔父は腕相撲が強いのが自慢なんです。連れていった友達は叔父と必ず腕相撲をやらされました。
でも本当に強かった。野球部、水泳部や柔道部の連中を連れていっても、誰も叔父には勝てませんでした。当時は叔父ももう40を過ぎていたと思うけれど、高校の運動部の現役連中が1人も勝てなかった。
叔父が「みんな弱いな」というから悔しくて、野球部の4番を連れていってやらせたことがありました。ところがそれでも叔父には勝てなかった。何度やっても勝てないのでハンディ戦といって、叔父の手首をつかむような形でやってみた。手首をつかまれると手首のスナップを使えません。それで4番が初めて叔父に勝てたんです。「何だ、ハンディをやれば勝てるのか」と叔父に余裕の表情で言われました。みんな運動部で現役バリバリで体を鍛えている連中ですから、普段仲間内では腕相撲で負けたことがない。それがなぜ叔父には勝てないのか、みんなで首を傾げてしまいました。叔父も陰では腕立て伏せをしたりして鍛えていたのかもしれません。
酒に関しては叔父に1度ひどい目に遭わされたことがありました。これも高校時代のことですが、ハワイにある叔父のマンションに遊びに行ったときのことです。
ある晩、日本人の戦争花嫁がやっているバーに連れていかれました。ハワイにも米兵と結婚したあと離婚して、水商売をやっている人が増えていたんです。叔父がなぜそんなところに連れていったのか、いまでも真意がよくわからないのですが、席に着くなり、戦争花嫁がいかに苦労してきたかという戦後の歴史を真面目に講釈しはじめました。
「伸晃、世の中にはな、こうやって苦労している人たちもいるんだぞ」
そういって戦後の裏面史を滔々と話してくれるんですが、バーに行くのは初めてだし、急に真面目な話をするから私が面食らっていると、 「これ飲んでみろ。叔父さんが高校や大学のころには、酔うために最初にまずこれを飲んだんだ」
といって飲まされたのが「ジンスト(ジンのストレート)」でした。
いまでこそジントニックとかジンリッキーといった酒がありますけれど、当時はジンを飲みませんから、私もどんなアルコールかわかりません。ショットグラスに入っていたので量は少ないし、昔はみんな飲んだというので、一気にクッと飲んだ。
一瞬にして目が回ってきました。ろくに酒も飲んだことのない高校生にはきつ過ぎた。いまでも覚えていますが、気持ち悪くなって横になっていたら、口から大きな泡を吹いた。口から大きな泡がしゃぼん玉のようプワーッと(笑)。その1杯でダウンして叔父のマンションに帰って居間のソファに倒れこむようにして寝ました。酒を飲んで泡を吹いたのはあの一度きりです。
叔父と父のケンカ
私が子供のころはいくら飲んでも酔わない叔父でしたが、大学に入るころから酔う姿を見るようになりました。人並みはずれた体力を誇った叔父もさすがに歳だったのでしょう。酔うと意外に泣き上戸になったり、うちの親父(石原慎太郎)とじゃれ合うようなケンカをしたりしていました。親父が「それはオレの高い酒だ。なんで勝手に飲むんだ」とケチなことをいうと、叔父がわざとダーッと注いで「たいしたことねえだろう」といってグイッと飲む。酔っぱらってそんな些細なことでケンカをしていた。
叔父は子どもがいないせいか、私たち兄弟のことを心から可愛がってくれました。特に3番目の弟は小さいころは自分に似ていたこともあって、殊の外可愛がっていた。しかし52歳の若さで亡くなりましたから、いっしょに酒を飲む機会は、1番年長だった長男の私が断然多かった。すぐ下の弟、良純も私より5つ年下で、成人するころには叔父が体調を崩していましたから、あまりいっしょに飲むということがなかった。叔父とよく飲んでいた私のことを非常にうらやましく思っているようです。
やさしさは最期まで変わらず
叔父の晩年、病気が重くなったときに、ヒーリング治療を紹介したことがありました。その数年前、私がテレビ局に入社したばかりのころの話です。フィリピンのバギオ山中で導師を囲み、サークルを組んで、一種のトランス状態に入る。意識が飛んで、自分がこの世にいないかのような不思議な感覚になる。自分を失うという、初めてのそして、とても恐い体験をしました。
同行した知人のなかに、肺がんで余命2ヵ月を宣告された社長がいました。フィリピンに向かう機中でも、見るからに体調が悪そうだったその彼が、ヒーリングを体験した後、信じられない程元気を取り戻した。
私自身も半信半疑でしたが、とにかく何かの役に立てばと、叔父にその話をしたんです。ところが「オレはそういうのは信じないから」とはっきり断られた。叔父は昔から無宗教、無信仰で、そういったものは一切拒絶する哲学を持っている人でした。
しかしその後、病が重くなったときにもう一度話をすると、その時は肯いてくれた。そこで慶応病院の病室でヒーリングの治療を受けてもらったのですが、もう手遅れだということでした。結局、叔父はほどなくして逝ってしまいました。
もう少し早ければ、あの治療が本当に効いたのか、いまでは知る由もありません。それでも私は、私の治療の話に肯いてくれた、あの時の叔父の顔が忘れられずにいます。なぜ叔父が、自分の信念を曲げてまで私の言葉に同意してくれたのか。それは自分が助かりたかったからというより、叔父の役に立ちたいという私の気持ちを汲んでくれたのだと思えてならないからです。
父と叔父とはいつも対照的でした。自然に人の気持ちがわかってしまうやさしさを持った叔父と、一度決めたら、周囲の雑音など気にせず物事をやり抜く情熱を持った父。そんな2人だからこそ、あんなに仲が良かったのでしょう。そして私は2人から、意志をもって物事をやりぬく事を、やさしさをもって人に接する事を、そして2つは決して矛盾しない事を教わりました。
そんな叔父が逝って、早いもので、もう十余年が過ぎようとしています。